天気の良い春の一日、近所に格好の散歩道がある。
ふらっと散歩して1−2時間。
それだけで私の「太陽電池」の「充電」にはかなり効果的。
春は短い。
来週末にはこの芽吹きの美しさは失われ、もっと緑は濃くなってしまっているだろう。 そう、それは「失われる」、のである。 それこそ、永遠に失われてしまうような気になるのはなぜだろう。
他人が言うには、「春は毎年巡ってくる」のだから、失われるのではなくて今年の春がただ「過ぎる」だけの筈なのに。
だけど、「去年の春」と「今年の春」と「来年の春」はどれも、かけがえのない、取り返しのつかないものだよね。
春は何度でも来る、だなんて ただのレトリック。
30代半ばぐらいから やたら自然や季節に対して過敏になってきた。
今や 春に萌えたつ雑木の散歩道にさしこむ、輝くばかりの木漏れ日の美しさにさえ、涙ぐんでしまうほどにセンシティブになっている自分がいる。
何かが私をせき立てる。
暗い箱の中で人生を浪費していては行けない。
外界はこんなにも毎日変化し、美を振りまいているのに、
それを受け取らずにただ人生を通過していってはいけない。
このひとときは、取り返しのつかないひととき。
このひとときは、「いのち」のひとしずく。
このひとときに対して真摯であれ。
この1日がanother dayと同じだなどと誰が言った。
同じ一日などふたつとしてないではないか。
・・・・・・・・・・・・・・そういう思いが私をせき立てる。
そう。春は年に1度しかめぐってこない。
人生、自分の寿命分しか春を楽しめはしない。
自分に配給される資源は、限られた貴重なものである。
70で死ぬなら あと30回もないわけだ。
30回。
あなた、30数えてご覧なさい。あっと言う間でしょう?
3000ならまだしも、30ですよ、30. たったの30.
そのうちの1回を失うだけでもものすごい損失だと思わない?
・・・・配給分以上に春を味わいたければ、北から南まで春を追いかけて精力的に春の気を全身で味わって歩くしかないよね。
そう、私は欲張りだから、せっかくの神様からの配給分を取りこぼすと想像しただけでも耐えられない。
私がこの年でこんなに思い詰めてしまうのである。
75過ぎた父親や70近い母親にとっては、
この春の美しい世界はどのように映ることであろうか。
この春、父親は都内各所の桜の名所の公園などに
精力的に出かけたようである。
「急がなきゃ」という気持ちになっているのかもしれない。
最近 しみじみそういうことばかり考えるのである。
かくして、
「かけがえのないもの」
「とりかえしのつかないもの」
そういうものばかりが折り重なってゆく。
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